一番の理解者で、一番の味方
私は19歳の時に父親を失った。彼の死因は病死だ。
彼は私の一番の理解者だった。彼を失い、心にぽっかり穴が空いた。
私にたくさんのことを教えてくれて、いつでも私の味方でいてくれた。私を否定せずに肯定してくれた。
――あまりにも早い別れだった。彼を失って、彼の跡を追うことを何度も考えた。狭い世界で生きる私を照らす光が彼だった。
居場所がない。
私は彼以外の誰からも愛されていない。
そう思い込んでいた。
ところで、父親の病気が原因で両親は離婚する。
離婚後、私は母親に引き取られた。
私が中学生の時だ。
あの当時、家族――特に祖父が私を酷く嫌っていた。
「この家から出ていけ! 」
「そんなにも死にたいのならば、今すぐ死んでこい!」
母親も祖母も祖父の味方につく。
私の意見を聞かない家族。
ある日のこと。
とある事件から情緒不安定になり、大学休学の意思を伝えた。
そうしたら、祖父が「大学を退学しろ。お前に大学生活を送ることは到底無理だ」と大学休学を許可してくれない。
説得しても「駄目だ」の一点張りだ。母親も祖母も祖父の味方につく。激昂した私は家族を罵倒した。
高卒よりも大卒の方が有利である。無知な家族はその事実をもちろん知らない。学歴で人生が決まる。
家族の行為が私の人生を破壊した。当時を思い出すと、家族への憎しみが際限なく湧く。
見ての通り祖父の意見が全てで、私はまるで空気のようだった。
大学中退後、大学を退学した(させられた)旨を父親に報告した。それを聞いた彼はたちまち気色ばむ。
父親は母方の家族への怒りを露わにした。
直後、「……莞爾。俺にそのことをどうして事前に相談しなかったんだ」怒りと困惑が入り混じった声でそう漏らした。
「……莞爾が1人で抱え込まなければ、俺はお前を助けられた」
その言葉を聞いた瞬間に私は泣きたくなった。
――父親はいつでも私の味方でいてくれた。
――大学を卒業する重要性を私に教えたくれたのも私が自分に自信を持てたのも全て彼のおかげだ。
彼は私の全てだった。
父親だけ見ていた
今までの私は父親だけ見ていた。
ところで、父方の家系はエリートだ。地元の偏差値が70を超える進学校を卒業した親戚が多く、関関同立に進学した親戚が何名もいる。
職業が保険外交員だった親戚また、放射線技師の親戚など高度な職業に従事する親戚もいる。
父方の家系はとにかくエリートなのだ。
それだけに私は父方の家系――父親ばかり見ていた。
ちなみに、父親は有名企業に就職し、そこで商才を遺憾なく発揮して、賞をいくつも受賞した。コンビニの店長も務めた。
培った経験を活かし、私に人生訓を語った。
私は彼に心酔した。父親といると、母親がつい幼く見える。彼女は私の全てを否定して、すぐヒステリーを起こす。
一例を挙げると、家族3人で野球観戦に行った時に母親が突如怒り狂い、「帰る!!」と喚いて、私と父親を困らせた。
当時の私は母親と過ごす時間が苦痛だった。
現在の私はそうではない。
母親と真摯に向き合い、母親にしかない魅力に気がついた。
だが――、母親にしかない魅力に気がついても私自身、父親に心酔した状態がいまだに続いていることを感じていた。
私は彼を神格化していたのだ。
そんな私を見兼ねた父方の親戚が私に「莞爾はお父さんに縛られすぎだ。お父さんが死んでからもう4年になるんだぞ」と厳しい言葉をかけた。
彼の言葉を聞き、はっとした。
そうか。
父親が亡くなって、もう4年の月日が流れたのか。
彼が亡くなった時、私は19歳だった。あれから4年の月日が流れて、私は23歳になった。
父親という名の鎖を断ち切る時が訪れた。
目覚めた私は父親の姓から母親の姓に改姓した。父親の姓は私と彼を繋ぐ鎖だった。それを断ち切ったのだ。
私、父親と母親が写る家族写真を見る。
それを見ると、様々な思い出が蘇り、涙腺が緩むのだ。
事故、仕事、病気、死別
父親は私が産まれる前にバイク事故を起こし、重傷を負うが、一命を取り留めた。
しかし、バイク事故の後遺症による開放骨折で脚がO脚に変形した。
長距離を歩けない。
手摺りを持たないと、階段を昇り降りできない。
だが、それでも、仕事に行っていた。体を酷使して、家族のために一生懸命に働いた。父親は仕事人間だった。
有名企業を退職後は職を転々とする。
まさに渡り鳥家業だ。
私は彼を見て、一意専心の重要性を学んだ。
ところで、渡り鳥家業との表現から分かる通り、彼は飽き性な人だ。
パソコン教室に通うものの、途中で飽きてしまい、そこへ通わなくなる。
タクシー会社に就職して、二種免許を取得するものの、そこを早期退職する。
彼にはそうした一面があった。
――さて、家族のために働き続けた父親の体を病魔が襲う。
私が中学生だった時、父親は急性骨髄性白血病を発症する。
仕事から帰ってきた父親は「鼻血が止まらない」と私と母親に訴える。彼を見ると、大量の血液が白色の上着に付着していた。
至急かかりつけ医に診てもらう。血液検査で異常と診断されたため、紹介状を持参して、総合病院を受診することになった。
翌朝。
家族で総合病院に行き、父親は診察を受ける。その結果、急性骨髄性白血病と診断された。
この日から父親の闘病生活が始まる。
6年にも亘る闘病生活だった。長いようで短い。
快方に向かう。が、病状が悪化する。帯状疱疹の症状が現れて、深夜に救急車を呼ぶ。彼の体は弱っていた。
また、歩行器を使わなければ、歩くこともままならなかった。
2019年の上旬。
父親はデイケアに通い始める。
そこの体調管理ノートが実家にある。そのノートには日に日に弱る父親の記録が残されている。
体重減少、食欲低下――。
目も当てられない。
そうして、1月、2月、3月、4月、5月と5カ月の月日が流れた。父親と最後に会話を交わしたのは5月の終わり頃、入院先の病院だった。
痩せ細る父親。しかし、口達者で、1カ月後に息を引き取るとは思えないほど元気だった。
「莞爾。元気か?」
「うん!」
父親は微笑んで、「……そうか。莞爾が元気なこと。それが俺の幸せなんだ」穏やかな声でそう話した。
父親の手に触れる。
華奢で細い指に触れた瞬間、胸が傷んだ。
それから、父親と最後の会話を交わした数日後に私は地下鉄に飛び込み、自殺を図る。
幸いにも頭部強打と右腕の怪我で済む。命に別状はない。
――父親が亡くなったのは、彼の幸せを破壊する行為に及んだ罰なのかもしれない。
私が自殺を図った数日後、父親が危篤状態に陥る。私と母親がその一報を聞かされたのは夕刻だった。
父親の入院先の病院まで母親は車を走らせる。私たち2人が父親の病室に入ると、父方の親戚と祖母が彼の介護ベッドを取り囲んでいた。
私たち2人は彼の元に駆け寄る。
「お父さん!! お父さん!!」
父親の名前を私は連呼した。
涙が頬を伝い落ちる。
父親の名前を連呼する私に親戚の男性が「――莞爾。お父さんをそろそろ解放してあげよう」と言った。
私は口を噤み、介護ベッドから離れた。
父親は私たちの到着を待っていたように直後、息を引き取った。心電図の波形が一直線になる。
――父親が亡くなった。
――私の一番の理解者で、私の一番の味方だった父親が亡くなった。
涙が止まる。
父親の顔は安らかだった。
翌日。
父親の通夜が営まれ、その翌々日に葬儀が営まれた。葬儀の後に彼の棺が霊柩車に乗せられ、火葬場まで搬送された。
そうして、火葬直前。炉前で親族と共に私は僧侶の読経を聞きながら、死化粧が施された父親の亡骸をずっと見つめていた。
その後、父親の遺体が火葬され、親族たちと彼の遺骨を箸で拾い、骨壷にそれを収める。
現実を受け入れる。
その難しさを痛感した。
今
――父親が亡くなり、4年の月日が流れた。
当時19歳だった私は23歳になった。
父親のことを思い出すと、今でも涙をぼろぼろと零す。
彼だけが私を肯定してくれて、彼だけが私を認めてくれたとずっと思っていた。
彼を喪ってから1人ぼっちの世界を生きているような気がしていた。
――違う。
大丈夫、悲しまなくてもいいの。
大丈夫、嘆かなくてもいいの。
あなたは1人じゃない。
そのことを忘れないで。